椅子物語 / chairsstory

主に、手許に残っていた1970年代中後期〜1980年代末期にかけてのチラシ(flyer)やパンフレット集成

【 2014年2月11日 浅草鼎談: 竹田賢一 ・多田正美・ 園田佐登志 / 進行: 新﨑博昭 】
 
(2014年4月26-27日の追悼イベント時に発行された       【 7711小山博人text 】から pp. 87-95  原題「FREE MUSIC SPACE 」とは?)
 
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「     」とは?

鼎談 - 2014年2月11日 浅草にて -

竹田賢一(元・ヴァイブレーション・ソサエティー/ミュージシャン/音楽批評)

多田正美(元・GAP/マージナル・コンソート/サウンド・エンカウンター)

園田佐登志(元・明大現音ゼミ/音楽家/映像作家/"Chairs Story" Archives)

進行 新﨑博昭(元・イヴェント・アクシデント7711/文学)

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~ 今日集まっていただいた3人の方々は、小山博人氏が初めて表現の現場にかかわったといってもいい運動体「FREE  MUSIC  SPACE」の立ち上げの3グループの主要なメンバーということになります。これに小山氏がほとんど1人で切り回していた「イヴェント・アクシデント」を加えて、4団体で立ち上げたといっていいと思います。まずは、1977年の秋から小山氏が中央大学哲学会という学術サークルを拠点に催していた「SOUND YARD」の企画を通じて、いち早くかかわっていたGAPのメンバーである多田正美さんに、GAPの活動、あるいは多田さん個人の活動について簡単にご紹介いただきます。

多田 GAPは、1974年秋に四谷上智大学講堂で、第一回現代音楽コンサートとして、佐野清彦、私と川島立の作品と、ケージの「ピアノとオーケストラのコンサート」(1957-8)で始まっています。ジョセフ・ラブの研究室が、近藤譲らトマト、ウエットなどの会として佐野清彦も加わってやって来ていたのですが、その時点でGAPとして立ち上げた事から事件が起きます。近藤と佐野、GAPとジョセフ・ラブの確執というか、2回やったところで永遠に出会うことはなくなります。直後、川島は離れてしまい、曽我さんが以後GAPの重要なポジションを持つようになるのですが。3回目が銀座ヤマハポップスポットで小杉武久による「インパーフェクトミュージック」、フェラーリのテープ作品、4回目コンサートを江戸川の河原での太竹組んでの重労働即興イベント演奏の頃から、小山氏が立ち会ったことを覚えています。エコロジカル・・プラクティカル・・エロス・・コンサート構造法シリーズと連続して70年代後半、機関誌など発行、GAP WORKSを開設して80年代に入ると更に、イレーム株式会社になる経緯は余りに今も語られない部分があります。私は、その頃ピアノ職人としてピアノづくりをしましたが、静岡県の古い伝統芸能に接したことで、再度表現の現場に戻ることになり、画廊と連携して活動を再開しました。音をきっかけとした原点の立ち上げ・・国内の他、オランダ、イギリスでの公演、ネパールのイベントにかかわったりして来ています。

~ 当時ヴァイブレーション・ソサエティーは、フリージャズのサックス奏者三浦崇史さん、伝説のギタリスト灰野敬二さんに竹田さんがキーボードで、ドラムはこのころは臼井弘行さんで演奏されていたのですが、どんな経過で結成されたんですか?

竹田 昨年、75年から5, 6年雑誌に書いた音楽評をまとめて、月曜社から『地表に蠢く音楽ども』を出しました。当初は雑誌に音楽批評を書いていましたが、物足りなさを感じて実際に演奏するようになります。74年に坂本龍一と学習団を結成し、それを見に来ていた三浦さん(残念ながら、79年に亡くなります)と奥さんが関心を持ってくれるようになります。76年大みそかにキッドアイラックホールでオールナイトのコンサートを企画し、坂本龍一佐久間正英のデュオとかイスクラの小原さん、音楽雑誌関係の人たち、灰野敬二がソロ参加するなどしました。自分はヴァイブレーション・ソサエティーとして出た。灰野さんはその日にヴァイブレーションに入った。そのころドラムは臼井君でした。当時は、ガリ版刷りでチラシをつくったものです。

~ 竹田さんは、昨年日比谷の脱原発の集会でお会いしましたが、前から社会的な関心をお持ちだったんですか。

竹田 脱原発というか反原発は、そもそも、58年小学校の遠足で東海村大洗海岸に行った時に、原子力発電所の調整室にまで入って見学したことにさかのぼります。日教組の先生方も平和利用ということで、熱心に企画したようで、時代的にも、「鉄腕アトム」の連載があり、63年にはアニメが始まります。反原発に意識が転換したのは、68年頃都立大で助手の高木仁三郎さんの自主講座みたいなものを受けたころからです。

多田 テレビで見ていた鉄腕アトムの効果音は、小杉武久さんが磁気テープをツギハギして作ったもので、コジマ録音から出していた。

~ 反原発の意識は随分早いですね。全共闘運動が挫折して、70年代前半に、エコロジーへの関心が起こりますよね。ドイツあたりでは、それが継続して今に至るんですが、日本では続かなかった。

竹田 当時はそれぞれがバラバラに起こっていた。大学のバリケードがなくなってからは、エコロジーへの関心から、鳥取の山に家を建てている関西のグループがあって、1年半位東京と行ったり来たりしていた。そのころ、ハイデガーをずっと読んでいて、最近ハイデガーの批判もあるけど、オブスキュアの意味がその時わかったりした。ローマクラブの前の段階のレポートのタイプ打ちのものがあって、71年から72年にかけて自分なりに訳していたが、そのうち『成長の限界』の翻訳が出た。同じ方向性で原発の問題を扱っている。

園田 竹田さんは、間章さんのハイデガーのとらえ方に疑問があると発言されていますが、どんな文脈でですか?

竹田 ハイデガーのどこに注目するかということだけどーーーー。

~ 実は、間さんとのトラブルが SOUND YARDのイベントでもあって、何回目かの企画でEEU(高木元輝、近藤等則、吉田盛夫)を呼んだときに、フランスに売り込んだりしてマネージャーみたいなことをやっていた間章氏に対して、音楽批評のスタンスを巡って小山が批判したんですね。それで、間氏は怒って帰ってしまったんです。内容はわからないんですが、間氏は高橋巌氏に急接近して、神秘主義に傾斜していったことに、私なんかも危うさを感じていました。小山から類推するに、認識の留保に欠けると思っていたんではないかと思うんですけど。

~ 竹田さんは、大学では、哲学ではどのあたりをやってらっしゃったんですか?

竹田 認識論史をやっていて、そういう意味で、音楽についても通して知ろうという気持ちがあった。

多田 自分のところの大学のあった座間あたりでは、ベトナム戦争を身近に感じていて、基地のバイトで、すごい待遇で死体を洗う仕事があるという噂なんかもあった。

~ 相模原あたりでは、ベトナムへ向けての米軍の戦車輸送の阻止の市民運動なんかも盛んだった。80年代に竹田さんは、韓国のミュージシャンとコラボしてやってらっしゃいましたよね。日韓行動とかいうイベントとか。

竹田 86年に、サルムノリなんかと一緒にやったことがあったけど、あれはむしろ千野秀一が中心にやったと思う。池成子(チ・ソンジャ)さんなんかともやった。

多田 そうですね。86年に「千年の出会い」というタイトルのコンサートをサルムノリが、埼玉の高麗神社でやった時にそのまま追っかけて、長野の美麻村で1週間くらいミュージックキャンプがあり参加した。キムドクスさんらと一緒に韓国から持ち込んだ食べ物やら、健康体操まで経験しながら生活して得たものは実に大きかった。無手勝流で自由にやったんだけど、それでキムドクスは「面白い」と言う、彼の言う究極は「肌の色は同じなんだ」で、在日問題はどこか吹き飛んだ。日本で初めてだと思う最初の音楽キャンプは、確か記録映画になっているはずです。使っていると楽器が壊れるんですよ。するとたとえば、チャンゴのもとになる桐の樹は、日本では木が育たなくて、ああいう音が出ない。だから、日本には残ってなく日本の太鼓になった。演奏することは踊ることと無手勝にやっていて、すごいフレーズが下りて来る、それが韓国の伝統音楽の中にあるということに気づいた。それで止めて、またゼロから始めたのですが。面白かった。彼らが来られなくなったこともあってそれっきりになった。

竹田 高麗神社のイベントを企画した日高町教育委員会の人は、今では町長になった。

~ あのイベントは、中上健次が企画に加わっていて、それこそシャーマニックな儀式も交えて面白かった。

多田 韓国といえば、1年半前にホン・シンジャという前衛舞踏家と出会って一緒にやることがあったんですけど、彼女は74年にニューヨークから韓国に帰国して戒厳令の下で前衛的な舞踏公演やって伝説的になった人です。一昨年、ケージ生誕100周年ということで、ケージと関係ある日本の人を韓国に呼ぶ企画があった。ホンさんの照明をGAPの曽我傑が20年も前からやっていたので、偶然の出会いに驚いた。何故かピアノを私が弾くことになって、「Four Walls」(1944)を韓国国内で既に11回も公演をしている。踊りとピアノと光りの3つが出会うとGAPかも。

~ では、本論に入って、フリーミュージックスペース(FMS)の頃について、お聞きします。どういうきっかけでFMSにかかわることになったのですか。

園田 77年の終わりころ、六本木の天井桟敷のアトリエで、GAP(佐野、曽我、多田)がイベントを企画した。この時、三浦さん、小山さんと私が来ていました。多田さんは、物干し竿に靴紐をひっかけて靴を上げ下げしていた。三浦さんは、すでに、その年にSOUND YARDでやっています。私が明大の文化祭で76年の11月にEEUを呼び、三浦さんがその場で演奏に加わったりもしている。                   その六本木のイベントの時に、GAPと小山さん、三浦さんと私とで何かやりましょうという話になって、77年暮れか78年に入って、竹田さんちに行って、皆テープを持ち寄って話をした。それが最初の打ち合わせです。それで、明大の記念館で何か企画を考えてみようということになり、共同企画で、毎回ごとにミーティングをやって、お金も出し合ってということで、78年1月に最初のイベントをやった。ですから78年1月に明大の記念館で行ったのが正式にはFMSの第一回目。打ち合わせや場所は特に決まっておらず、お茶の水の喫茶店でやったりで、佐野さんや三浦さん、火地風水の面々も来て、灰野さんと小山さんとで激しい口論になったこともある。

竹田 新宿の喫茶店ランブルで打ち合わせをしたことを覚えている。その時初めて、大里(俊晴)君(音楽評論で活躍、残念ながら、最近*2009年亡くなった)も来た。

~ 77年秋に「SOUND YARD」として企画した中央大学中庭でのイベントに戻すと、そこには、園田は参加していない?  

園田 参加していないですね。GAP、ヴァイブレーション・ソサエティ-、「火地風水」(佐野さんの北鎌倉高校の教え子たちで結成した。これは小山氏の妹の高橋文子、織田淳子、太田彌生、三上久美子の4人の高校生)それに、小山さんが組織したイヴェント・アクシデント(中大哲学会、木畑壽信、万本学、新﨑、その周辺の金子正泰など)、それに、美学校出身のバイオニックと「からめく螺旋音」(乙部聖子、桑原常代、向井千恵、堀川久子)という女性だけのパフォーマンスグループが参加していた。

~ 自分の記憶では、中庭当日は、コジマ録音が様子を見に来て、実際の録音は、中大の教室(223教室)でGAPに限定して録ったと思う。

園田 いや、ヴァィブレーションもありますよ。あれは、多分、小山さんがお金払ってコジマ録音に頼んで録ってもらったんだと思う。中庭の奴もコジマ録音のオレンジのテープが小山さんところに残っていたので。

~ 小山たちの偉いのは、当局をうまく利用するのに長けていたこと。中大哲学会は、大学当局と喧嘩して一度潰れてるんだ。70年3月に大学側が学生会館をロックアウトして、学生による自主管理権を大学側に引き渡すことを条件に、ロックアウトを解除することを交渉してきたんだ。結局、会の活動より、政治的活動を優先して、活動休止になった。そこで、私なんか行き場をなくしてしまう。それを、小山たちが再建することになる。それで、ちゃっかり予算を獲得しながら、小山の残した当時の文書には、「大学の多摩移転で学生会館の問題をなかったことにするな。」という風にけじめはちゃんとつけている。77年の11月の中庭でのSOUND YARDも学園祭でもなんでもない。自治会は再建されてないはずだから。多田さんの映した写真を見ても、学生たちが、授業の合間に通りかかってイスに座って演奏を眺めている感じだ。73年に自主学園祭をやった時には、言わば、実行委員会で占拠してやったことからすると、時代を感じるし、大学の了解を取った上でのやり方は上手い。

竹田 SOUND YARDのメンバーとは、木畑さんなんかと寺子屋の土曜講座でも会ってたような気がする。

~ イヴェント・アクシデントは楽器ができる者がいなくて。小山も耳に特化したミュージシャンであって、私なんかも、現代音楽とかプログレファンに過ぎない。木畑が社会学に引き寄せて、一緒に「構成と差異」という冊子を作って会場で配った。万本は、哲学で小山とセッションしていた。

~ 話を戻して、FMSは何回位実施した?

園田 FMSは明大で6回、明大を出てやったものを合わせると10回以上はやったと思う。これには、第五列の初期のメンバーだった佐藤一樹、それに金野君やゲソ君も来ていた。他は、羅宇屋、キドアイラックホール、騒(これには吉村弘、今井和雄、小山さんも参加)、町田のカラビンカ、江戸川の河原、早稲田大学などで演った。桐朋学園大学では、機材が来なかったりして中止になった。

~ 江戸川の河原前後では、笠井叡さんの舞踏とのコラボもやっていた。

園田 FMSには、いろんなグループが参加していた。ジュネ、(工藤)冬里君、突然段ボールヒカシュー巻上公一が加入する前で。

竹田 円陣を組んで、民族音楽の即興音楽みたいなことを演っていたよね。

園田 若林さんと言ってシタールを今でも教えている人なんかいて。FMSは、まあ、運動と言うよりは、人の流れとして、SIU(Spontaneous Improvisation Unity)の大木公一さんやGalapagos清水一登もやがて佐藤隆史さんのやっていたマイナーの常連になっていったし。

~ お寺でやった記憶もあるんだけど

園田 それは森本(恭生)さんがシリーズでやっていたものです。

~ FMSはどんなコンセプトがあったんですか?

園田 それぞれじゃないかな。1回1回集まってアンデパンダンでやったりもした訳だから。

~ それがコンセプトじゃないかな。小山の当時の言い方で言うと、演奏家としての階層なしに、思いついた者が自由に呼びかけて企画し、この指とまれで随意に集まって演奏する。終わったら、次の企画を縛らない。次はまた、随意に誰かが呼びかける。68年世代の議論の仕方でもあるし、デリダとかドゥルーズの語り口が遅ればせながら入ってきて、大権力に対して、小セクト権力同士の自壊に終わって中途半端になったことをきちんとやろうという発想ですよね。

竹田 小山君は、現代音楽好みから出発しているんじゃないかな。アプローチの仕方が、フリージャズというよりは現代音楽からだったんでは?

園田 フリージャズもかなり聴いていたけど、イヴェント・アクシデントという名前自体が現代音楽から来ていたような気がします。「新しい場所」、「音楽の解体」とか、「開かれた場」という謳い文句も含めて、彼はそのあたり、はっきりしている人だったから。

~ 小山なんか都会の高校生はフリージャズから入った。私なんか田舎出は、気後れしながら、ロックや現代音楽から入った。園田氏は、明大記念館をFMSの会場のため手配するなど、活動の運営に携わった担い手の1人だけれども、明大現音ゼミではどんなことをしていたんですか?

園田 そもそもは、現代音楽やフリージャズ、プログレ好きの集まりで、北村昌士、浜野や射殺魔の和田君も来たし、大里なんかも加わって、好きなレコードを持ち寄って、明大の記念館の上で聴きあっていた。

そのころ、小沢(靖)君は、立教大学、のロッキング・オンの会というのがあって、そのメンバーなんかと一緒に来てた。すでに、76年にはイスクラに参加しているけど、あと、私のインプロバンドの手伝いもお願いした。

~ 小沢さんは、FMSでは、機材をいつもきちんと準備していたような気がする。機材の後ろに佇む長髪、黒づくめのクールな美青年という風だった。

多田 彼と何人かで、機材レンタルの会社もやっていたと思う。向井千恵さんもFMSに参加していました。彼女とは美学校で同期で、イーストバイオニックで一緒に活動しました。小杉武久さんの音楽教場に私もいたのですが、77年に小杉さんがマースカニングハムに呼ばれてニューヨークに行ってしまったことがあり、それまで小杉さんは、いつも「開かれた場」ということを言っていたのですが、96年にニューヨークから戻って、芦屋美術博物館で展覧会をやった頃には、「空間」という言葉ばかりになり、「場」という言葉はほとんど使わなくなっていた。ガッカリして、今井和雄のマージナル・コンソートを応援しようと始まった。

~ 「空間性」とか「場」というのは、FMSでも意識していたような気がします。私は、イヴェント・アクシデント7711に限定して短期間しか活動しなかったけど(小山はイヴェント・アクシデントとして継続して活動)、明大のあの記念館はドーム状の空間になっていて、それなりに利用価値があった。他に芸のない私は、地下鉄の走行音をテープで流し、それをリズムにして、小山が音を合わせたりしました。そのうえで、ビラを作って風船に括りう付けて、階上から階下にまいた。ステージでは、小山が楽器に風船を括り付けていて一緒にやったりした。クラウンの役回りのつもりだけれど、イヴェント・アクシデントはやることが生固いとつぶやかれたものです。イタリア未来派のヴァーレーズの都市の空間を開放するなんてことを意識したつもりでいたんだけど。実際にやったかどうか知らないけれど、火地風水の若い子たちが、電車で笛を吹いて、駅員が来たら逃げるなんてことを話題にしていたのを覚えています。閉ざされた都市を開くというか、多田さんの「場」を創造するという意味もあったのでは?

その3, 4年前、中枢央部地区労学コミュニティーみたいな言い方で、千代田区界隈のことだけど、無関係空間をつくろうというグループがいて、同じような発想があったような気がします。

~ ヴァイブレーション・ソサエティーは、どんないきさつで結成して、どんなことを目指していたんですか?

竹田 新宿の東夷で、三浦崇史さん夫婦がやってきて一緒ににやりましょうと言ってきたんです。そこでの提案が「ヴァイブレーション」ということばに拘って、それは、宇宙のイメージがあって、ソサエティーは人間社会ということで、ジャズもロックも現代音楽でも何でもありということをコンセプトにしたいという「何とかではないものではないもの」という方向で考えていた。

~ そういう意味では、FMSと同じコンセプトーーー。

園田 FMSには、とにかくいろんな人が集まっていた。

~ 灰野さんとのかかわりは、どんな出会いだったんですか?

竹田 71年の三里塚の幻野祭だったか、いやそれ以前に、立教大学の学生演劇の演出を、自分の高校時代の友人がやるということで、照明を手伝ったんです。演劇に音楽をつけるということで、ロスト・アラーフというグループがやってたんだけど、灰野君はメンバーのなかで一人だけまだ若い18才で、ビートルズでやるということで他のメンバーは近づけてるんだけど、彼だけは全然違っていた。

~ 幻野祭は、どんな形で参加したんですか?

竹田 自分は見に行っただけで、彼は、ロスト・アラーフで演奏したんです。最後の30分は彼の独壇場だった。

~ 後のスタイルはそのころ出来あがったんですか?

竹田 今の灰野さんのようなスタイルになるには、小沢靖君という触媒がなければ。小沢君の存在は大きいね。

園田 小沢君のことは、映画でもすごく言ってますよね。

竹田 灰野君は、調弦する人間は信じられないって言ってたね。

園田 でも、後になると、他の人と普通に曲をやる時は、専属に調弦を担当する人が居たような気がします。

~ 自分では、そのような作業にはかかわりたくないということでしょうか?

園田 「ヴァイブレーション」ということばで入ったって言ってた。「入らないわけにはいかない」と思ったと。

多田 キッドアイラックホールでは針が振り切れていた。凄いインパクト。タージマハールのような大地の懐かしい音もいいとは思うけど、灰野さんの音は、今までに経験のないものだった。

~ 明大でのFMSの最後のほうになると、よしのまことさんなんかが参加して、(SOUND YARDで撮影に来ていたという話もあって情報を知ってたんでしょう。)大盛り上がり大会になった時に、佐野さんがこれじゃ困るんだけどと言っていたのが印象的です。私なんかは、そのあたりで一区切りになったのかなという気がしますけど。

多田 そうかな、よしのまことは演奏できたかな?

~ 記録にはクレジットされています。当時有名人で、飛び入りで入ってきてお祭り騒ぎになったんです。

話は変わるんですが、竹田さんが大正琴を演奏することにしたのはどんな経緯ですか?

竹田 これは、いろんな所で言ってるけど、学習団でライブやってて、その後、坂本と買いに行ったんだけど、坂本とやってると何もやることがないんだ。それで、コタニ楽器で、エレキ大正琴を買ったんだ。

~ 何か韓国の匂いがするんですけど。

竹田 いやそういうことはなくて、ただ、弾いてから気づいたんだ。キンキンする音が、わびとかさびという方向の日本の文化じゃない方向に連なる韓国からトルコに行く流れということに、自分で気が付いた。

~ GAPは、どのようにして結成されたのですか?

多田 もともと、佐野さんは近藤譲とは芸大時代からのライバルで、作曲活動をしていたんです。問題は何であったのかですが、宮沢賢治は、「一度職業芸術家は滅びなければならない」と言うようなことを言っています。アマチュアリズムとプロフェッショナリズムは、どちらが素晴らしいのか?私は佐野さんのように純音楽の可能性を社会・現実の中にゼロから立ち上げようとした方に味方する者ですが、それは、その先40年の世の中みても、それほど変わってはいない。二つを対立させるのではなく、三つにしたところが良かったと思うのですが、近藤譲は、結局理解出来なかったようです。それは、どこか日本の現代音楽が、自分のことばかりだから、その後元気が無くなる元になったのかもしれません。今では、現代音楽はすっかり元気がない、どうしてくれるのと言いたいね。

多田 2人は、マルクスレーニン毛沢東なんかの激論を常にしていたけれど、グループではなく党であると、私はそこには言葉が無かった。それでGAPには私のようなバランスが必要だった・・、何でしょうね、どのジャンルにも属していないのです。佐野さんと、それより前学生時代にガーナのリズムセクションを2人で別けて叩いていたら、溶け合って二つが完全に一つになってしまった経験がある。デタラメに弾いたら、周りの人がお腹を抱えて、笑い転げた、その後もそう言うことがあるのですが、それが何故なのか当時は不思議に思ったけれど。

~ 曽我さんは、いつからやるようになったんですか?

多田 3回目のイベント作品からだったと思いますが、それ以前からGAPに出入りしていて、近藤譲の近くにいて演奏をしたり、彼の所で作曲も学んでいたようです。クラッシックギターの小原聖子さんの野方一族たちと一緒に共同作業したりしていて、彼はそこで目立っていました、私もそこには何度も行っていた。皆その後どうしたのだろうか・・。

園田 曽我さんは、今は、舞踏関係の企画や音楽、照明を内外でやっていますよね。

多田 86年に、土方巽が亡くなって、その追悼の会で芥正彦と多くの若い舞踏家と接触した。曽我さんは、その頃から舞踏の照明と音響・作曲の仕事までしていて、それは光による「演奏」だと言っています。最近知ったのはピナバウシュに雇われて、彼女の照明を担当していた事、ピナを韓国に連れて行って、ホンシンチャに会わせてもいます。インドネシアと韓国と日本を繋げる原点活動は、知る人ぞ知るです。

~ 小山は「多田さんは面白い」と常々言ってました。小山はシリアスに論じることも多かったけど、多田さんの遊戯性にも関心を持っていたようです。多田さんの音楽教場に行ったことはないけど、印刷物を見ると、丘の上と下に発信器を置いてお互い音を発信してモワレを引き起こす。室内では鈴木昭男なんかもやっていたけど、多田さんのはスケールがでかい。

GAPでは、佐野さんなんかが、ナイーフ派に興味があって、ボンボアの絵なんかのことを言ってたけど。

多田 それは、竹橋の近代美術館で、日本で最初の大規模な「素朴な画家展」が 77年にあって、つまり「楽しい」と言うことを徹底して貫いているのを観て、私なんかどこか救われた気がした。

変かも知れないですが、灰野氏とも70年代にデスマッチというのを桐朋学園祭で、誰が企画(園田さん?)したか知らないですが、行ったら中止に追い込まれたり、その後もやったけれどその立ち上げる純度は、傑作・最高、で緊張した。嬉しいのと純度と永遠の反抗、どこか繋がるものがあると思う。

~ GAPでの演奏はどうでしたか?

園田 多田さんの最近のパーフォーマンスは強迫的かつ暴力的です。(笑)

多田 GAPは、3つの絶妙なバランスがあって、佐野さん、曽我さん、私の三つの関係性、一枚のレコードだけなので、凍結してしまったのは実に残念です。その後は各自が、GAPをカタチを変えてやっているようなものではと思ってはいます。

~ ここまでやってきて、まとめに入りたいんですけど、当時、GAPの方からは、リュック・フェラーリ、ヴァイブレーション・ソサエティーの方からは、サン・ラーなどと言った集団での演奏が話題になることが多かったように思います。FMSは、それぞれ時には複数で、場合によっては、参加者全員でやる場合もありました。グループで演奏する際に、どんな演奏をしたい、あるいは、したと思われますか?

多田 確かにフェラーリは、その前から良く聴いていました。第3回目のコンサートで一柳のテープ作品「東京1969」と共に聴かせた記憶があります。GAPの演奏は、現代音楽作品の中から始まりますが、民族音楽であったり、祭りの中の即興的なものだったり、ケージの作品だったり、一柳慧「プラティヤハラ・イベント」など、既成の作品の中の自由に戸惑い、何だろうと感じていた。フェルドマン作品などに、楽器の専門家に依頼しなければならないことがあったり、自分たちが「即興」することは、そこから逸脱して行ってしまう事なのですが、それがどこに向かおうとしていたのか、狭間を埋める者たちも、追従する者たちも出てはいない。それは社会と関係なくはないのです。日本社会は、そんなことにはお構いなく文化より経済高度成長だけに向かって行ったけれど、時代とは何でしょうか。次々と新しいことが起こる「時代」は感じますが、その土台となる環境原点は急速に今40年過ぎて、忘れ去られている気がします。即興することとは、楽しい音を出すことでもないし、人を驚かせることでもなく、巧い演奏を聴かせることでもない。音と音との可能性環境づくりの原点カタチをしてみせるのではと思うのです。(この部分不完全です)当時、まだ水を買ったりすることは考えられなく、日本語パソコンも携帯も考えられない時代です。確かに今は便利ですが、果たして豊かさをもたらしたのかと思うと疑問です。

園田 若輩者の私としては、五里霧中暗中模索というか、まわりの演奏者やイヴェンターの見よう見まね、まさしく手探り状態で小沢君や向井さん、GAPやVIBRATION、小山さん、第五列の面々と即興演奏を始めたような気がします。

2008年にリリースした小沢君の追悼CD(PSFD-186)に収録されたのは FREE MUSIC SPACE」の記録は、タージマハール旅行団以降の集団即興演奏の指標となり得るのではないかと、密かに思っています。その本領はジャンルの越境云々に止まらず、アマチュアリズムとプロフェッショナリズムの超克ではなかったかと考えています。

~ 当時は、音楽が時代を引っ張るという感じがありました。直接、音楽をやっていなかった私なんかでも、音楽を通して世の中を見るということがあったと思います。70年にやり残したことをこのころの音楽でやっていたという印象があります。何か権力や制度を倒すということでなく、自分たちそのものの制度を、主体的に内から解放するということでしょうか?70年の頃は概念的だったことを具体的につくっていくという感じがありました。そういう感覚は、FMSなどで具体的に感じられることはありましたか?

多田 確か1970年に高橋悠治がヨーロッパから戻った時、真っ白の服で渋谷公会堂で、バッハ・ベートゥベン・クセナキスと続けてピアノで弾いたときには、まさに時代が変わると思ったものでした。雑誌『トランソニック』が出て、武満の「今日の音楽」、ベトナム戦争に、ロッキード事件成田闘争、その中でFMSのようなこともあったりした。今21世紀で起きている「便利さ」ですが、何もしなくて良い痛みのない時代なのかと、錯覚を起こしそうです。昔よりも極端な環境が整ったような危うさを感じています。若者たちが、どう奮起するのか貫いて欲しい。

多田 まだ火地風水となる前の鎌倉女子校音楽科だった彼女達を呼んで集め、即興をGAPがして見せては、そこに引き入れた時のことを思い出します。何も知らない、けれど若いパワーがそのまま即興する可能性展開、圧倒的な純度の新鮮さだったと思います。それがどうなったのか、それからをどうしているのか。

~ 2年間FMSに付き添って、成果も大きかったと思います。ジャンルや演奏技術の格差を越えて、また、中心的なヘゲモニーなしに演奏が成り立つ。これは、そのまま社会関係の実験でもあった。しかしながら、私の中では、課題も見えてきたようにも思います。演奏する側の自由はあっても、それが、ただシリアスになりがちで、聴く側がどこにいるのか、聴く側の自由がどこにあるのか疑問とするところも若干感じました。象徴的なのは、78年秋に、石神井の倉庫で、高橋悠治や小学生の合唱も一緒にやった時に(これは、それなりに面白かったのですが。~ 多田氏資料, エクスペリメンタル・フェスティバル「逆転する24時間」'78/9/23, 4pm start  /24 am6 end , 場所, 真映スタジオ(西武線武蔵関駅下車), 主催はEX-house. ディレクター: 森本恭生, 佐野清彦, 音響責任: 小沢靖、AD : 鳥居信景, 協力: ローランド)坂本龍一を呼ぼうとして、忙しくなっていて来なかったことがありましたが、彼はシリアスミュージックからポップスに移行しようとしていたと思うんです。同じようなことで、比ゆ的に言うと、私小説的なフォークソングピンクレディーが蹴散らした時期でした。ある種のすっきりした形式主義で、これは、YMO、最近のパフュームを媒体にした中田ヤスタカ真鍋大度につながっているような気がします。大げさに言うとロシアフォルマリズムにも似たものを感じます。このころから、ボードリヤールの消費文化論が出たりしていた。(資本に対する安易さもあるけれども)「消費媒体に打って出る」という選択もありかとも思ったものです。

多田さんが最近の現代音楽がつまらないという言い方に私も同じものを感じます。小山も常々言っていて、最近では、昔から好みだった中世・ルネサンスの曲をよく聞いていたようです。ある時期からの現代音楽は、作曲家の専門的な作曲技法の自己満足に終わっていて、聴く側にワクワクしたものをもたらさない。(坂本龍一も、NHKの「スコラ(音楽の学校)」で同じようなことを言っていました)一方で、大友良英のように、ひとつの「場」例えば、福島とか障がい教育の場で、しかけに工夫をして(遊戯性といってもいいのですが)聴き手を巻き込むというやり方があります。聴き手との関係を場として演奏が拡張する。その時、聞き手と演奏家の区別がなくなる。消費文化にほとんど関心のない小山も、遊戯性ということには、随分興味を持っていたようです。美術のジャン・ティンゲリ-に随分興味を持っていた。

これからの方向として、やる側も聴く側にも開かれた音楽の在り方について、どうお考えですか?

多田 簡単に一言で言い切れません。それぞれが40年近く貫いて背負って今もいる者たちに、真なるものはあると思います。痛みのないようなことで続ける事は出来ないからです。外に出てみると文化として違いが良く見えて来たりします。確かに現代音楽とか、ジャズとかジャンルが細かく分けられますが、どうでしょうか。日本の中にだけの視点からは、極めて日本的な考えの中にだけに陥りやすい気がしてしまいす。例えば、変わった考えは駄目だったり、目立つと直ぐ足を引っ張るようなところとか。「出会いの二律背反」というレポートを私が即興をして見せた直後、学生に書かれてしまい、どうしてそんなことが書けるのか、そもそも才能が必要なのか、勉強してなるものなのかと考えてしまったことがあります。

70年代にあったその無名性の展開を、再度ここで整理してみるのは有効ではと思います。          

~ 最後、二人きりになりましたけど、園田さんの経歴というか、自己紹介をお願いできますか?

園田 僕には皆さんみたいな輝かしい履歴はありませんので、悪しからず(苦笑)。

ただ、竹田さんの話で思い出したのですが、実は現音ゼミには、東洋大から長谷川裕子さんという女性が来ていた。これが76年頃。彼女は面白い事にイスクラにも参加し、その後、イヴェント・アクシデントの木畑さんと「寺子屋通信」を連名で編集することになった。また、80年代に入ると、小山さんも原稿を寄せた、万本、木畑、小坂(修平)さんたちの「ことがら」誌に加わり、私の所にデザインの依頼が舞い込んで来たりした。その同人には、草野(尚詩)君も居て、私の学生時代の友人が始めた高円寺のレンタルレコード・ショップ「パラレルハウス」周辺とも繋がって行く。パラレルは80年代の中央線沿線文化の一角に留まらない広がりを持ったショップで、現-boid樋口泰人が実質、店長をつとめ、小山さんや第五列のゲソ君、弟のシゲマ、本山正明、熊井和恵や中村わかめ、山脇(享祐)なんかも企画やフリーペーパーの製作・執筆等で尽力し、私も『フールズ・メイト』誌に載せる広告を作っていた。オーナーの野口君とは大学の現代詩のゼミで知り合い、彼はFMSにも顔を出してくれた。これも辿っていけば、FREE MUSIC SPACE がもたらした一連の人の流れだったかもしれません。

~ FREE MUSIC SPACE 関連のイベントで何かエピソードなどあったらお聞かせください。

園田 それはやっぱり、ヴァイブレーションの演奏の最中に、ステージの右の端っこかで木畑さんがいきなりコンガをポコポコと叩きだして、灰野さんが、その場から立ち去るよう、何らかの仕草をしたんだけれども、木畑さんは、そのサインの意味を汲み取れずにというか、敢えて汲み取らなかったのだろうけれど、引き下がらずに叩き続けた。それでも、灰野さんが強行なものだから、しぶしぶ、木畑さんは、ステージの脇から立ち去らざるを得なかった。

~ とても印象的というか象徴的な事件でしたね。竹田さんはたまたま居なかったような気がするんだけれども、居たら、また違っていたのかな。他には、なにかありますか?

園田 2008年の小沢君のお葬式の時、出棺前に「釘打ちの儀」といって、それぞれが順繰りに小さい石片を持って、お棺の蓋に釘を打つんですよ。灰野さんはその時も、彼にとっては当たり前のことかもしれないけれど、徹頭徹尾、自分のリズムと所作でそれを執りおこなった。その時、ふと思いしたことがあったんです。

多田さんも言っていますが、78年8月、吉祥寺羅宇屋でのたぶん灰野さんとの初顔合わせで確か「シャナナはパンクロックの匂いがする」というセミアコのギターを天井からぶら下げて遠隔操作をするパフォーマンスを灰野さんがやった(「その気になってイヴェントをやっているバカども」という吉祥寺遊会での発言を思い出す)。その時、トントントンと木片に釘を当て金槌を振るう多田さんに向って「自分のリズムで叩けよ!自分のリズムで!!」と、灰野さんが、叫ぶというか、怒鳴りつけた。多田さんは何喰わぬ顔で、そのままトンカチを叩き続けるのですが、とても印象深い出来事としてこれも記憶に残っています。むろんその葬儀には多田さんも列席していたので、一瞬にして記憶が繋がった。

ただ、そののち多田さんは、小山さんも絶賛している1993年の「Son/存」というアルバムで、その答えを出したんじゃないかと思う。そこから聴こえてくるものは、石を叩き葦を振り回し竹を転がす多田さんの身体性に深く彩られながらも、かろうじて「もの」を自分の身体感覚に無理矢理引きつけないという、行為と無作為とのせめぎ合い、というか、多田さん独自の方法論ではなかったかと思います。

~ FREE MUSIC SPACE が開催された明治大学の記念館講堂は今は取り壊されて、リバティー・タワーという瀟洒な建物に代替わりしているんだけど、それなりに感慨があって、取り壊す時に出かけて行って写真に撮った。半年間にわたって、第3だか、第4日曜日とはいえ、あれだけの建物を使い続けたというのは、どういうことなんだろう?ドイツなんかで、今空き家になったアパートなどを占拠して有効に使うという運動(スクワッタリング)と似ているものを感じるんだけど。

園田 あの建物は、「牢獄建築」で名を馳せた設計者がデザインしたもので、私たちが利用したのは、現音ゼミの頃からだと3年間です。記念館のてっぺんにあった音楽鑑賞倶楽部という学内サークルの部室を、断りもなくろくに根回しもせず、学外に開放した。新﨑さんが言うように、今考えるとほとんど「スクワッタリング」みたいなものだったかも知れません。強力な支援者も居ましたが、彼らが卒業してしまった事で、サークルの特定メンバーから、随分というか執拗に叩かれたりもした。学内組織の限界というより、「音楽という名を借りた、なにかしら得体の知れない集団・一味」と映ったのかも知れません。

~ 都内で行われていた公民館利用の運動とか、実は今回のイベントも当初公共の図書館を利用してやろうという企画もあったんだけど、壁に阻まれて実現しなかったんだけど、同様の発想かもしれないですね。公的な施設を有効に利用して行こうというのは、そもそも小山の大学の中庭でのパ―フォーマンスもそうです。日常的な利用空間を異化していく働きかけとして、面白く引き継がれているような気がします。

園田 そんなこんなで、1978年の半ばからは、学祭を除けば、軸足を吉祥寺のマイナーや羅宇屋や他学に移していった。でも79年の3月までは、学内で藝大小泉文夫門下の印巻(赤羽)由起子先生の「西洋音楽史」という授業に潜り込み、代講をやらせてもらったり昼休みにレコード・コンサートを開いたりした。同じ時期に、晶文社の理事で名編集者として鳴らした卒論の指導教員、小野二郎といっしょに水牛楽団」を見に行ったこともあります。ですから、1978年10月に創刊されたタブロイド版の『水牛』の一号と二号は友人たちが編集に加わっている。個人的にはFMS同様、幾つかの流れが同時進行していたということです。

★ 対談を終えて

それぞれにお忙しい中、時間を作っていただき対談を実現することができました。1977, 8年当時、すでに独自の活動をなされていた方々が、何気ない誘い合いから、およそ2年間の音楽の場の共有、あるいは、ムーブメントと言ってもいいのかもしれませんが、一定の活動に発展していった経過をたどることができたのではないでしょうか。

さらに、どのような活動が行われていたのか、故大里俊晴氏の小説「ガセネタの荒野」や評論集、園田佐登志氏のCDなどによる紹介を通じて、いくらか漏れ聞かれていることかと思います。改めて、当時の関係者が集まり記憶を確かめ合うことによって、活動の内容もまた、浮き彫りにすることができたのではないでしょうか。

ジャズやロック、クラシック、現代音楽、民族音楽など、さまざまなジャンルが競合していた当時、そうした垣根を越えて、さまざまな領域で活動する方々が同じ場で演奏しあうこと、さらには、お互いに影響しあって、複数のグループで一緒に演奏し、さらには、まれには、参加者全員でーーーーーー。多くは、即興の形をとりました。また、演奏の場も、出来合いの演奏会場のみならず、一般の施設、そして、演奏を想定していない場所さえも演奏の「場」として開いていきました。会の準備の話し合いや運営においても、参加を希望する誰もが提案し、企画にかかわり、進行に携わっていくことができる。そうした意味で、まさしく、FREE MUSIC SPACE でした。

このムーブメントには、故小山博人氏の発想が相当程度生かされています。それは、遺稿集に収められた小山博人氏の提言に具体的に示されています。また、かかわった方々を列挙してみると、その後注目すべき活動をされている人たちも多いし、結構な広がりがあったことがわかります。音楽活動に参加されていた方々はもとより、それ以外の立場でかかわった方々にもまた、活動を通じて、小山氏達の考えるところが何らかの形で伝わっているのではないでしょうか。さらには、その後の小山氏自身の批評活動やテープなどによる表現活動も含め、80年代以降の表現の現場に広く影響していったと考えるのは持ち上げすぎでしょうか?

この活動にかかわった方々が、この対談を通じて、当時をどのように振り返るか、また、初めて様子を知った若い方々がどのように感じられるか、その手掛かりになれば幸いです。

小山氏は、高校時代より2010年まで、さまざまな分野の表現を「読み解き」、語りや文章、企画等で表しました。この対談は、当然彼のいないところで行ったわけですが、特に、あの2011年を彼は知りません。2011年以降をどう読み解くか聞いてみたいところです。そして、それは、残された私たちの課題でもあります。

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2017 改訂版(改訂者: 新崎 / 竹田発言は原文のまま)

(2022/04/10 公開 〜 随時更新)

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【 椅子物語 】(chairs story)
「Contents」 
http://d.hatena.ne.jp/chairs_story/20160909/1473401180